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開巻直後にごろりと転がる人の頭部。どこが「さらば、バイオレンス」?! と戸惑う観客の胸ぐらを摑んでパルプなTOKYOノワールへ、暴力と笑いがきれきれに連なる一夜の狂騒へと引きずり込む。その凶暴な切れ味に三池印を刻むいっぽうでお務めを終えたやくざに黒社会の女刺客と、仁義をかざしてジャンルの規範を想起させる存在を輝かせ最初期タランティーノ映画とも通じる好ましさを召還する。昔気質へのそんな愛が「中国の鳥人」でこそ記憶したい監督+脚本コンビ最大の美点だろう。
いじめ、自殺、家庭崩壊。中学生をめぐる問題を現場で吸い上げ発せられるメッセージが胸に刺さる。子どもたち以上に深刻な大人たちの問題。皮相的報道の問題(終幕の父の会見、一見、同情を呼ぶ存在の実相を映画は指し示す)。主題のそうした奥行を嚙みしめた上で、異母姉弟が動物園でつかう弁当の一景、その姉の身の振り方、どぶ川での一悶着を切りとる縦の構図等々、“普通の映画”としての見せ方、物語り方にも魅了された。蛇足ながら特別協力澤井信一郎監督の新作も待望する。
カルト教団、猫殺しの少年、大地震。世紀末から今世紀へと鮮烈に記憶された事件や出来事をふまえ、選ばれた者と普通の人、境界の向こうとこちら、夢、現実、生と死、犠牲を求めている世界――と、わなわなとした不穏さを呑み込んだ物語を目と耳にねじ込むノンシャランとしてしぶとい映画の感触。深遠さを玩びながらジャンル映画としてのスリルを何より追究するかにも見える、その摑み所のなさを前に判断停止状態に陥った。これを新しさと呼んでいいのか、ふがいなく迷っている。
2011年3月11日。もう春なのに雪が舞っていたのかと福島がフクシマやFukushimaになった日を俯瞰する幕開けに、劇映画としてその日、その場をどう描くのか――と、素朴な疑問と期待が膨らんだ。が、見るうちに無能な上官に翻弄されつつ自己犠牲の精神を発揮する部下を前線に送り出す板挟みの存在の悲憤を描く戦争大作めいてきて、しかも結局、責任の所在をうやむやにしたまま満開の桜に涙する、まさに戦後日本への道をなぞり、迷いなく美化するような展開に呆然とした。
三池崇史監督の原点回帰を企図して好きなものを好きなように撮らせた結果、(少なくとも2010年代以降ではぶっちぎりの)最高傑作ができてしまった。寡黙なボクサー、仁義に厚い武闘派ヤクザ、知略家と思いきや間抜けな組織の裏切り者、暴走するキレ女といったステレオタイプ的なキャラクターが、三池作品が時に陥りがちな極端な戯画化演出の一歩手前で役者の身体性と融合し、すこぶる魅力的に躍動する。恋愛ならぬ共生のドラマとしても誠実で、優しいラストカットに思わず涙。
このような題材を扱った映画は必要であり、作り手たちの本気を疑うつもりもない。が、観ていてどうしても引っかかる。この残酷な現実、救いのなさをドラマに仕立てる際に、それを字義通りの残酷さ、救いのなさとして表現する手つきは、はたして当事者的な問答に根ざしたものだろうか。それはこの映画を「社会の闇」を描いた作品とする打ち出し方からも感じる疑問である。まず自分自身が他人事にしないという前提に立った場合、現時点で、僕は、この映画を評価することができない。
現実の不条理や不安感、痛みをなんとか映像に定着させようとする真摯さは大いに讃えたい。若い役者たちの顔、たたずまいもわるくない。しかし、映画の強度に耐えうる身体性を獲得する以前の役者たちを象徴主義的な画面のなかで動かそうとすると、なにやらこそばゆい居心地の悪さがただよってくる。彼らを映し出すならば、半端にそれっぽい画面をつくるよりもアマチュア的無造作にもっと依りかかってよかったのでは。将来「壷井濯の原点」と呼ばれる可能性に期待をこめて。
この数年間に「福島」を描いた映画は多数あったが、言うまでもなくそこではつねに「撮る」「向き合う」「物語る」という主体が問われていた。この映画のタイトルは、海外のメディアが、生命の危機に直面しながら原発の復旧作業に力を尽くした人々への敬意をこめて名づけた呼称に由来する。そこから読み取れる映画の主体とはいったいだれか。豪華俳優陣が見せるやりすぎなほど統率された迫真のうちに、この作品は検証や哀悼や連帯ではなく、動揺や怒りや対立を呼びおこす。
二〇年前に出ていれば大傑作。まずそう思ったが、いまこれをやれるのもすごい。活劇映画のヴァイオレンス、どうするか。三池監督と脚本の中村雅は最後の抜け道に出る「恋」をつかまえた。鮮度ベスト3は染谷将太、窪田正孝、そして宣伝で冷遇される藤岡麻美。シーンでも、染谷が何度も危機を逃れるところ。ヒロイン小西桜子が「生きてみる」となるのも、古い内野聖陽が詩的に救われるのも、オマケ以上。二時間を切る尺にこの詰め方。タランティーノの近作を褒めた人、どうする。
痛ましい二家族の話。始まって早々、ケン・ローチなら、あるいは城定秀夫なら、どうやるかと思ったりした。しかし中盤以降、引き込まれた。隅田監督と鍋島カメラマン。監督がうまく、撮影がよく、役者ががんばって、作品全体が歯を食いしばっているという感じに。川瀬、村上、有森は、文字通り「見ていたくない」部類の弱い大人。子の側の鎌滝、杉田、椿は、いざというとき、いい顔をして、いい声を出す。これほどやれるなら、真に対決すべきものへと思考を展開してほしかった。
課題「東日本大震災をテーマに」からこれだけの作品ができた。坪井監督の表現は、若さや資質で説明できる範囲をこえるものだ。助言と協力も大きかったろうが、映画以外のジャンルも含めた表現の現在の、いわば罠に進んでハマっている。「走れ、ミドリ」がまず効いた。それを受けて走りつづけるヒロイン翠の表情が、幼いときも七年後も感じさせる。若い世代の内側にあるもの、取材したもの、パクリ的なものが絡んで、詩的な引力を生みだすが、後半は画が使いまわしになりすぎたか。
あの日のあの時からはじまる、事実にもとづく物語。だが、佐藤浩市と渡辺謙を真ん中においた悲壮演技の応酬が、ウソだと思えてならなかった。そして事実の取り出し方、どうだろう。政治的意図とヒューマニズム、どちらも安手の二つが手を組んでいる。二〇一四年までの話で、「自然を甘く見ていた」というだけの結論。何を隠蔽したいのか。若松監督、承知の上の職人仕事か。知るべきことがここにあるとする人もいようが、二〇二〇年に見るべき作品にはなっていないと私は考える。