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「ウーマンリブ運動のカリスマ的存在」田中美津の「見えない部分」を追う監督は「フェミニズムとはこういうもの」と敬遠している人にこそ見て欲しいとチラシに綴っていて、まさにそのターゲットだと身を硬くして臨んだのだが、田中の裡に見出した「明るさ、おおらかさの奥にある強さ、切なさ、孤独」「膝を抱えて泣いている少女」が自分の中にもいるという監督の映画が掬うカリスマの透明な脆さのようなもの、それを共感や敬愛の念に溺れない映画の距離ある眼差しが息づかせている。
実父母と監督が共演した短篇「クレイフィッシュ」で対峙した家族、死をめぐる経験あってこその処女長篇は、実を虚にするための歳月を経た脚本に支えられ「家族ってわからないもの」という懐かしくも涙ぐましい普遍を不器用に、だが切実に射抜く。ゆっくりと紐解かれていく家族の歩み。兄帰るの瞬間の遠い眩しさ(窪塚洋介!)。終盤のいらない種明かし的な部分がなければなと、そこだけ残念。台所の狭さの居心地良さ等々、家族の場所、その実感を映像化する美術の力も忘れ難い。
監督は「グラン・トリノ」を思っていたとプレスにあり、だからこそ十字架を背負った老人の覚悟と行動が原作以上に映画の柱となったのかと納得。イーストウッド映画の死の淵を覗きこみつつの痛快さは確信犯的に回避する選択にもまた肯いた。ただ小説にある時の幅、各人物の過去、それを映画で単なる回想場面でなく伝える試み、時の省略法を支える意欲が実り切れずにいて惜しい。端正な語り口、奇を衒わない撮影、編集。ああ映画! と思える映画を前につい欲を言ってしまうのだが――。
もう若くはない男女のすれ違いの恋。メロドラマに徹してタイトに濃やかに映画化する手もあったろうと、時代劇も戦争ものも恋愛映画も大作という額縁に収めて薄めるメジャーな日本映画の今、何が面白いかとは別の何かをまず睨む企画の貧しさを恨んだ。例えば重要なモチーフとして登場する割に機能していないヒロインの継父が撮った映画の挿話も、原作にはあるその内容、リルケの詩、戦争との関連等々の細部を大事に活かせる規模で映画にすれば観光的な国際性とは別の核を持てたのでは。
田中美津さんのことばに引き込まれるように画面を凝視していると、沖縄の場面から急激に画面の密度もことばの密度も落ちてしまう。嬉野京子さんの写真をきっかけに沖縄が田中さんにとって自身の生き方を問い直す重要な場所となったことは間違いなかろうが、90分弱の映画でその「切実さ」を描き切るのはそもそも無理があったか、あるいは作り手が田中さんと沖縄の関係性を咀嚼できていないか。むしろ今回は本郷や鍼灸の話に焦点を絞って掘り下げたほうがよかったのでは。
是枝裕和の諸作品や野尻克己「鈴木家の嘘」など、日本映画でもようやく家族の自明性に対して異議を申し立てる作品がつくられるようになったが、この映画はそのなかでももっとも成熟した達成といえよう。手堅いキャストから、その手堅さ以上の説得力を引き出した演出の手腕。情感に陥りそうな場面もみごとにこらえて忘れがたい余韻を残す。作劇上、斉藤由貴の告白にすべてを集約させてしまいがちなところをサラリと切り抜け、「外」の人間に最後の一品を運ばせるラストには唸った。
前半から中盤にかけては、抑制と誇張を心得た語り口で一人ひとりの物語に没入することができた。が、小松菜奈の失踪から裁判劇へと至る後半は、明らかに描くべき重要な要素を欠いている。近作では「宮本から君へ」がそのことに言及していたが、性暴力被害の傷をどう癒すかという問題を加害者の処遇に直結させるのは如何なものか。しかもここでは加害者をめぐる顚末は描かれても、被害者が傷と向き合う過程は描かれない。結果、それぞれの自立へ到るドラマも焦点がぼけてしまった。
一言で言えば「不正操作」をめぐる物語である。福山、石田のたたずまいが、嫌味な理屈屋に見えてしまいがちな男女をそれなりに好感の持てる人物にしている。が、この物語の真価は、人物への共感ではなく、空間演出の工夫や微細な所作の積み重ねがあってこそ発揮されるのでは。社会派風のシチュエーションを用意して持って回った会話を繰り広げるだけなら、辻仁成の作品で事足りる。ギターの音色もここぞという場面でのみ鳴るべき。桜井ユキの狂気を宿した目の演技は素晴らしい。
田中美津は、人に対して、諦めていない。臆さない。かわいい人。声を聞いているだけで飽きない。なかなかできないことだが、七十代半ばで死への到達を恐れずに思う。いわゆる活動以上に治療家として受けとめてきたものを核とする疲労。それが姿に出るときは祈る人になっている。その現在をこんなふうに記録した。文句なしかもしれないが、映画としては、幼児体験、沖縄との関わり方、息子への思いなどの独特さと危うさが、焦点を結ばない。吉峯監督、もっと対話をしてほしかった。
スローテンポ。大事なことを人はこんなにも言わないものか。また知る力もないのか。疑問は残るが、家族、とくにたがいに連れ子をもって一緒になった夫婦のかかえる苦悩が理解されるまでに時間がかかることはあるだろう。最近はこんな感じの役がつづく永瀬正敏がお父さん。その通夜の話。彼の遺志にしたがって妻の斉藤由貴が思い出の料理を出していく。この仕掛けでいちいち回想が入る。脚本も編集も常盤監督。段取りありすぎで膨らみがなく、三人の子は魅力ある人になれない。
精神科病院の患者たちの世界。医師でもある作家の原作。書くのも簡単じゃなかっただろうが、役者が「病気」を演じる映画はもっと大変。半端な倫理や美意識では扱えない題材への、平山監督の執念と覚悟に敬意を抱く。どんな意味での面白さよりも、いわばこの世の底辺での人間の条件を確認することが、すべてのシーンの前提だ。映画だけがおこせる奇跡へと持っていくには、もう何歩かと思うが、それを派手にやらない矜持ありとも感じた。鶴瓶と綾野剛、これまでにない顔を見せた。
重森カメラマンでフィルム撮影ということで期待した感触も、平野原作の純文学らしさも、腰おもく、でもようやく出てきたかというところで、ガーンと骨董品的メロドラマ展開。呆れつつ、西谷監督がこれをどう切り抜けるかという興味で見た。結ばれない二人の、相似的な愚かさと「そうなるしかない」をとりすまして追う。前半からの国際的時事性とゴージャス感は底をつく。ただ次への希望を消さないようにという話の運び。福山雅治のアーティスト、こんな人が確かにいるとは思った。