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♪黒い雨降る工業地帯♪川崎の切り取り方、撮影芦澤明子の底力が光る。その町のどん底の日々、這い上がりたい心、届かせたい叫び――いってしまえば相変わらずな青春、何者かをめざすひとりより、それを取り巻く周縁の人々の纏った闇に目が向く。石橋蓮司! ラップバトルの金髪女子が咆える♪いつまでストリートつらいっていってんだ♪がつきつける客観! 等々、興味深いパーツは少なくないのにそれを繋ぐ関節(脚本、演出、主演も?)が弛緩している印象を拭えず残念。
J・ニコルソン+M・フリーマンのオリジナル作の“もうご勝手に”な展開をそれでも成立させたスターの力。今回の小百合+天海(相性もいい)にもそんな力は実感される。少女の夢を代行というリメイク版のアイディアも、国民の夢を代行したスター吉永にはいかにもふさわしく、そのふさわしさに無駄な抵抗をしない彼女が自分の場所を素直に究めて獲得した久々の輝きが、あきれるしかないプロットにも目をつぶらせる。これをウェルメイドな映画といってしまうことには抵抗したいけれど。
友人の自殺を直視したドキュメンタリーに続く監督初の長篇劇映画とプレスにあって劇映画、え!? との肩すかし感とそうよねというまぬけな安堵を共に抱え込んだ。前作にも確信犯的に演出を持ち込んでいたという監督は新作でも迷いなく虚実の境い目に身を置いて、けれどもその狭間は名づけ難く人を食った感触をつきつける。記録であり記憶であると自ら位置づける一作は常にそこにいるキャメラ/嘘を意識させ観客を醒め返らせつつ巻き込むストーリーテラーぶり。正に一見の価値あり。
金太郎あめ状態著しい日本映画の昨今、「解放区」とも通じる知らない顔の俳優たちの魅力はある。とりわけ「FRANK」のM・ファスベンダーのかぶりものの表情を想起させる大澤数人の定まらない視線とすわった目の交錯は「演技を感じさせない演技」の演じ方として面白い。前作同様、撮影曽根剛の貢献度も無視し難い。が、映画としては幼稚な思いつきに終始していて、最終地点も透けて見える。遊びだけじゃないのよ映画は――なんて、今さらなことを真顔でいいたくなった。
若者の自己実現をテーマにしたありがちな物語と思いきや、人物造形にも演技にも、川崎という舞台の切り取り方にも、どっしりと重たい当事者性が宿り、「自己責任」を押しつける社会やマイノリティ差別に対する行き場のない怒りが観る者に自然と伝播、後半に向けてグッと拳が固くなる感触があった。あまり効果的でないスプリットスクリーンやスローモーションの使い方は再考の余地ありだが、これが第1回作品というANARCHY、明らかに映画に愛されている。第2章が待ちどおしい。
吉永小百合と天海祐希のタイプキャスティングから一歩もはみ出さない人物描写の貧しさが映画全体に及んでおり、早い段階でこの二人の行く末にいささかの興味も持てなくなる。周辺人物ふくめ、内的な情動をさっぱり欠いた状態のまま、気がつけばあらゆる問題が解決してしまう展開に啞然茫然。「チェンジング・ムービー」というふれこみだが、段取りと予定調和があるだけで、本質的な変化の瞬間はついに一度も訪れない。残るのは「最高の人生(の終活)は金次第」という感想だけだ。
ここまで擁護のしようがないダメダメ男をみずから演じる監督の潔さに感心。その徹底ぶりがあればこそ、最後にテープだけは死守しようとする主人公の意地(というか精一杯の虚勢)と逃走がどこか清々しく映える。土地の一面しかとらえられていない、という批判もあろうが、監督が企図したのはダークな観光映画ではなく、なすすべをなくした人間どもの点描であると考えれば合点がいく。ましてこれを「西成への偏見」などを理由に上映中止に追い込んだ大阪市の行政は恥を知るがいい。
それなりに楽しく観始めたものの、だんだんと虚しい気持ちになり、ラストには怒りをおぼえた。ここには作劇はあっても物語がない。だから目先のトリックやサプライズを優先するあまり、主人公の人生(物語)は作劇の道具として容易く蹂躙されてしまう。それでも「演じる」という内的能動性のうえに作劇が展開されるならまだよいが、結局はワークショップによって選ばれた役者の「見た目」に役柄を型はめして、動かしていく以上の工夫がない。つまり、演技はあっても映画がないのだ。
ANARCHY監督、そのラップの魅力の一面はおっさん的率直さで「普通」の足場に立つところだと思う。ここではそれが不発。野村周平の主人公は吃音気味で思いをちゃんと表現できない。その殻をどう破るか。下流の極貧だからといってこんなに痛快さなしでいいはずがない。家族や同僚はいてもコミュニティーのない空間と、あとはヤバい繁華街。いまの現実の底辺はこうだとするには、ちゃちなフィクションに頼りすぎで、外国人をおいても不自然に狭い。ラップのバトルもおとなしかった。
こういうリメイクの前例を思いつかない。勝負するとしたら、旅に出る二人が、自分たちと内輪の問題だけでなく、女性だからこその感受性で他者と世界にどう向かうかに突きどころがあっただろう。いちおうオーラありの吉永小百合も、啖呵を切れる天海祐希も、そして物語上のありあまるお金も、こんな使い方が精一杯という企画。その枠内で、犬童監督たちはなんとか映画という夢の、持たざる人々への初期的な機能のカビをはらっている。ムダ多いなかで満島ひかりは効率よく存在する。
安全とクォリティーの神話を追いだしながら、ふしぎに始末がいい。挿話ごとにぎりぎり危うさを切り抜ける語り方で、人物のいやな部分は先で文句を食らうようになっており、後半の「釜ヶ崎」への踏み込みにはその表裏の要所を粗く撫でるにとどまらない臨場感がある。自演の主人公の愚かさを描くのではなく生きてしまう太田監督の居直り的才覚は何ものかだ。しぶとく、そうではあるが、私的な野心と窮状の辻褄合わせをこえるべき「解放区」への思い、画に僅かでも出ていただろうか。
主要な出演者十五人を先に選び、脚本作りをアテ書きでゼロからスタート。全員がアイデアを出したというが、上田監督でなければやれそうにないことがほとんど。無名の役者という存在。その能力の発掘・活用と、演技の虚実にゲームを仕掛けることは、別のことだが、ここでは切りはなせない。とても独特に。サービスの心が現場から働いている。愛だとしたら何への愛だろう。そのヒントとなるように、作品の真ん中には、弟が兄を思う、似ていない兄弟がいる。画と音への不満は残る。