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シム・ウンギョンと松坂桃李、二人の主役が良くやっている。とくに最後、道路を隔てて顔を見合わせたときの両者の微妙に違う表情が、このあとの結末を宙吊りにして観客に課題を手渡す。ただ、韓国のポリティカル・サスペンス劇などに較べると、全体の緊迫感がやや不足だが、これは、たんに本作だけの問題というよりは、日本映画が、現実にはいくらでもネタはあるのに、こういう題材を避けてきた結果ではないか。田中哲司扮する松坂の上司の言動は、いまの内閣の本音そのままだ。
主人公・コウタの饒舌に、胃もたれを起こした。いまどき珍しく純情で楽天的な青年という設定にしても、10年ぶりに会った憧れの人に向かって、あんなにベラベラ喋りまくるか。夕方出会った二人が別れるときは、夜もとっぷり暮れていたが、それまで、ラーメン屋にいたわけ? 彼の家族の和気藹々ぶりを示すためか、父親役の光石研までが、やたらボルテージの高い演技で暑苦しい。石橋静河演じるヒロインの不幸な生い立ちと対照させるためにしても、全体にもう少し抑えられないものか。
タイトル前の玉城ティナ扮するオオバカナコ(大馬鹿な子?)のカワイソーな身の上を語るシーンが長すぎる。そのわりに、よくわかんないんだけどね。本筋は、藤原竜也演じるボンベロの派手派手しいレストランでのお話だが、そこに登場する役者の扮装や衣裳も、内装に負けない華やかさで眼を捉えるものの、厚塗りのイメージを押し並べるわりに、画面の躍動感が乏しい。最後のドンパチも、往時の香港映画の飛翔する力動感には遠く及ばない。玉城ティナが次第に可愛くなるのはいいが。
ゆるいなぁ。こういう話だから緩い、というのではない。冒頭の海を撮ったショットを皮切りに、一つ一つのショットが長すぎるのだ。長回しが生きるのはそこに動きがあるからだが、こちらは静止した画面がただ長い。典型的なのは、新が机の前に座っているのを横から撮ったショット。作り手はそこに思い入れをしているのかもしれないが、それをただ眺める観客のことも考えてほしい、というのは半分冗談だが、各ショットを少しづつ縮めて、全体で15分ほど短くすれば締まったろうに。
これがモリカケ物のドキュメンタリー・ドラマではない、という点は前提としても、年金問題で国から「お前ら貧乏人は退職したらとっとと死にやがれ」と宣告された身としては、こうした政権告発映画には頑張ってもらいたい、と切に思う。腐敗した政権を生き延びさせているのは誰なのか。内閣情報調査室です、と言ってしまうとかえって間違いで、やっぱりそれはマスコミなんですよ。韓国映画「サニー」では普通の美少女だったシム・ウンギョンが気骨ある記者に扮して出色の出来である。
映画に描かれる若者があまりに子どもじみていて面食らうことがある。この主人公のキャラも意図的にそう。一緒に出てくる弟とその恋人の方がずっと大人である。だがその造形の意図が分からないのだ。こういうヒトがいてもいい、という感覚なのかな。彼のピュアネスが、頑ななもう一人の主人公の心をほぐす、という線で展開されるものの、普通につきあえば彼女もこんなに硬直的な反応にはならなかったのではないか。様々な謎が立て続けに解かれる作りだが謎の提示の仕方が上手くない。
ティナのダイナー・コスチューム、その腰のくびれにひたすら感動。50センチちょっとだろう。人間一生のうちで、こういう「絶景」を撮ってもらえる機会というのはそうはない。SFXでちっちゃく加工された奏多もやけに可笑しい。これが殺し屋たる彼のいわば武器だというのだが。実話怪談でおなじみ、平山夢明のフィクションがスタイリッシュに変身を遂げた。監督は、自分の父親の写真を食堂の関係者として紛れ込ませたり芸が細かいが、原作の偏執的な感じが薄らいでそこは残念かも。
長崎の御当地映画、ずっと昔に消えた父を今さら探すことになった兄弟の話で、兄弟それぞれの事情と温度差が鍵となる。微妙にネタバレ厳禁なので書ける範囲で書くと、これは人ではなくむしろ土地や路地へのこだわりの方が面白い。ふと入った道に突然記憶が蘇る、その至福、というのは誰にも覚えがあるだろう。ロケーションが効いており、これが御当地映画の良さ。行ったことはないが、ここは海を見下ろす坂道の街なんだね。エンクミちゃんと井浦新の一人二役も興味深い趣向であった。
日本語のニュアンスに欠けるシムの演技に最初は引っかかるが、韓国人の母を持ち米国育ちという設定が判明すると気にならなくなり、日本のアーパー女優では出せない理性的な存在感が際立つ。露骨にモデルの事件が分かるだけに、物語を拡散させずにシムと松坂に絞って緊迫感のある画面を維持し続けた演出が意外なまでに良く、ウエットなパートも巧みに処理している。クライマックスで一気に創作に舵を切るのが不満だが、こんな企画が見当たらない昨今の日本映画としては画期的な一作。
かつて野方のアパート暮らしで高円寺を徘徊していた身としては、よくぞこの道をと思うような細かな路地まで丹念にロケしていることに驚く。男の勝手な女性像の崇拝が気味悪かった「アイデン&ティティ」から15年以上経つと、同じ高円寺映画でも石橋静河は“私は女神じゃない”と否定するので溜飲を下げる。主人公のキャラに最初は戸惑うが、いつまでも子供っぽい男子と、実年齢以上に大人に見える女子の組み合わせとしては絶妙。優しさの押し売りになっていない作劇も心地いい。
原作者に敬意を表して〈ゴミビデオ〉を目指したのかは定かでないが、蛇が出そうで蚊も出ぬ内容。残虐・恐怖・ユーモアが皆無のまま父の肖像画を飾り立てることに執心するニナガワ絵巻を延々見せられ、満腹感を越えて吐き気を催すほど。藤原竜也が例によって例の芝居で全てを台詞で説明。大仰で幼稚な演技ばかりの中、玉城の好演が唯一の救い。映像を喚起する原作の方が映画化が難しいのは分かるが、清順・三池・園あたりが自分の世界に引き寄せれば原作とうまく均衡が取れたのでは。
監督の個人的体験に基づいた内向きの企画かつ、淡々とした描写が続くだけにノレないと辛いところだが、未知数の大橋を抜擢したことで刺激をもたらす。新井浩文にも似た相貌を持つ大橋は、芸人を漫才人間と役者人間に分類する香川登志緒に倣えば後者のタイプに当たり、舞台でいつもキョドっているのとは別人の様に奥行きのある存在感を見せる。井浦が憎しみを抱く父の若い頃を二役で演じているのも終盤の展開を思えば意外だが、異物を混入させる演出が普遍性をもたらすようだ。