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世の中には、中老年男が、時間決めで少女と散歩や食事をしたりする、レンタル交際(?)はすでにあるが、正面切って「レンタル友達」として、女性が男をレンタルするというのが、設定上の工夫というべきか。要は、友達という一線を越えるか越えないかという話なんだけど、友達としての友情があるのかないのか、よくわからない。合わせて、画面作りが薄いのが気になる。室内にしても室外にしても、人物の背景になる空間に、奥行きや厚みが感じられないのだ。これもレンタルのせい?
ウズベキスタンで前田敦子が歩き、走る。まずは、バラエティ番組のリポーターとして、怪魚を探したり、二重に回転するブランコでぐるぐるしたりするが、独りになると、言葉も通じないウズベキスタンの街を歩き、バスに乗り、路地を駆け抜ける。タシケントで壮麗な建物に迷い込むかと思えば、カメラを抱え市場で迷子になる。そこに、これといった物語はない。他者とのすれ違いがあるだけだ。カメラは、そんな彼女を追い続ける。物語から遠く離れて、映画はその初発の息吹を甦らせる。
これ、予告篇を見たとき、なんだ、余命ものを絡めた青春映画かと思い、気乗りしなかったのだが、本篇は、そんな先入観を払拭してあまりある作品だった。まずは、熱血教師の陥りがちな誤りや、努力したってダメなことはあるという生徒のリアルを書き込んだ重松清の原作を、脚本が生かしているのが大きい。そして、病院で赤鬼とゴルゴ夫婦が出会う場面をはじめ、赤鬼の家でも、ゴルゴの家でも、大人三人、ときに抱える赤ん坊も入れれば四人を捉える画面が、的確に決まっているのに感心した。
いまどき珍しい、博奕絡みの人情話。昭和40年代の高知が舞台だが、その頃でも、まだ、あんなふうな賭場が開かれていたのかね? 主人公は、腕のいい料理人だったが、賭博にのめり込んで店を手放し、のたれ死にしそうなところを昔気質のヤクザに助けられ、賭場で客の世話を焼いて祝儀を貰うカスリコになる、という話の入り口の、主人公の動きや表情が、いまひとつ、話に乗りにくくさせている。また、話の軸になる手本引きは、「緋牡丹博徒」などでもお馴染みだが、いささか緊迫感に欠ける。
タイトルまんま。以上。ではあるが微妙なおかしさを感じさせるのは、恋愛じゃないのに三角関係、という不条理な展開のせいだ。あくまでジャーナリスティックな興味から「レンタル友達」契約に踏み込んだはずの主人公は、ところが部屋をシェアする女友達が契約一切なしに彼と友人になってしまうのが悔しくてならない。自分の打算を棚に上げて彼の計算を非難する彼女。相当色々コジらせてるのだが嫉妬の表現や発散のさせ方にアラサーならではの知的な屈折がある。音楽の入れ方も最高だ。
いかにも愚かしいテレビ番組制作のため中央アジアの異国に送り込まれ、さまよう日本人スタッフの姿は、結局何を撮る旅なのかがどんどん分からなくなっていく、という点から見れば旅人というより人生そのもの。その中で最も途方に暮れていた前田敦子が最後に辿り着いた高みで、思いがけない事物に再会し再生する趣向が楽しい。クロサワ版「サウンド・オブ・ミュージック」なんて書くと「馬鹿にするな」と怒られそうだが、感動的だからいいではないか。〈愛の讃歌〉は日本語が一番ね。
原作がこうなの? 何かもやもやした気分が消えない。要するに指導方法を間違えたせいで将来有望なプレイヤーを一人つぶしちゃった、という高校野球の鬼監督の話だとすると、悪いのは監督ではないか。つぶれた方が悪い、という論理も理解できるのだが理解したからどうなんだ、という印象。挫折したかつての少年が再起する話じゃないから納得できないのかも。彼のかつてのライバルがどうしてあそこでグラウンドに現れるのかも不明。原作を読めば分かるのかな。俳優陣は豪華である。
カスリコって何、という大問題は見てれば分かるので略。というかじわじわ判明する感覚も面白い。本格的なギャンブル映画で、かつ土佐ローカルな昭和映画でもある。低予算だろうが配役は新旧うまく混ぜ込まれており、久しぶりに見た大ベテラン服部妙子の朝鮮人老婆もお得な役柄。主人公の仲間で、セコい鎌倉太郎と大らかな山根和馬の対照も効いている。さて、物語の素材となる手本引きだが、任俠映画でよく見るサイコロ賭博と違うのでやくざ渡世の陰惨な雰囲気がないのも良かった。
レンタルなんもしない人に通じるタイムリーな題材かと思いきや、現実の方が先を行くだけに、恋愛に絡め取られていく本作が古めかしく感じてしまうのは致し方ない。室内の空間処理が突出し、ベッドと床の高低、台所とリビングを分けたやり取り、エレクトーンと椅子等の活用が見事。レンタル友達の橋本と、徳永の同居相手である芹那が、あれよあれよと意気投合するくだりを自然にではなく、作為性を堂々と用いる不敵さも良い。橋本は山内ケンジの舞台や映画の延長的なイメージで登場。
前田敦子を的確に映画へ定着させてきた黒沢清だけあって今回も見事に輝かせている。現地人とも日本人撮影クルーとも打ち解けぬまま孤独に見知らぬ国を彷徨う前田が不安を重ねるほど輝きが増す。夜の町の裏路地や地下道がどんどん不穏に見えてくる恐怖演出も良いが、洞口依子以来となる黒沢映画のミューズを射止めた前田が「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の最後に洞口が歌ったように、本作では〈愛の讃歌〉を歌うのが素晴らしい。歌わずにいられない感情へ持っていく演出の段取りが見事。
前作「キセキ」の演出も際立っていた兼重淳だが、本作は本領発揮と言うべき秀作である。挫折者に寄り添う視点を、抑制された描写の積み重ねで見せており、野球場面でも乱れを見せない。不要にカットを割らず、アップも入れずに芝居をじっくり見せることに徹しており、殊に冒頭の病院フロアでの堤、柳楽、川栄のやり取りを引きの画で長く見せるくだりは三者の質の高い演技を早くも実感させ、以降も難病もののパターンを演出と演技で刷新していく。堤にとっては代表作になるだろう。
昭和40年代をモノクロで描くと聞くだけで、無理に時代色を出そうとするチープな映画を思い浮かべそうになるが然にあらず。スタイルを感じさせないスタイルで撮ることで自然と時代性を表出させ、当時の映画と比較しても遜色がないほど。やくざや賭場といった今や形骸化しがちな描写も、石橋らベテラン勢の安定した演技も相まって違和感なし。高橋長英もかつてない存在感で、バイプレーヤーたちがハシャギすぎずに相互を活かし合いながら演じているのを眺めているだけで至福。