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タイトルの〝死んだ目〟とは、あえて〝見て見ぬフリ〟をすることを指すようで、中学生の主人公は、クラスのワルたちの残酷ないじめを見ても全く無関心。逆に〝お助けマン〟なるアニメふうのヒーローを妄想したりする根っからの他力本願。そんな少年が、ひょんなことからいじめられっ子と2人で、やさぐれ女からボクシングを習いはじめるという話で、どこかゆるい間とぎこちない関係が奇妙なユーモアを生み出し、加納監督の初長篇、かなり面白い。高樹マリアのやさぐれ演技がカッコいい。
少女たちの友情はおおむね、自分たちだけの内緒ごとを共有しているものだが、岡山のお嬢サマ学校で出会った異分子的な2人の場合、ひとりの妄想が生み出した架空の恋人を、架空と知らずにもうひとりが共有、あまりに他愛なさすぎて、気の抜けたソーダ水のよう。1980年という時代設定にしても、山口百恵の『ロックンロール・ウィドウ』を流し、手造りアクセサリーの路上販売屋を描く程度。妄想娘がのちに少女漫画家になったというのがミソのようだが、30年ぶりの再会話もワザとらしい。
人物は数人、しかも2時間近い作品なのに、どの人物も、どのエピソードもスケッチ程度の薄味で、達者な監督だったら30分でもっとコクのある作品に仕上げるに違いない。かといって風景や場所を前面に押し出して情緒纏綿として描いているわけでもなく、しかもどこか女性向け文芸映画ふうな思わせぶりも。キャスティングのせいもある。永作博美の独り納得した演技は生活感に乏しく、2人の子育ちのシングル・マザー役・佐々木希は、10年後だってこの役はムリ。台湾の姜監督、お疲れさま。
ザックリ。大まか。ダイジェスト。こんな脚本と演出で、夫婦愛、夫婦の軌跡を見せられても、はいはい、そーですか、としかリアクションのしようがない。夫婦は時計の振り子と同じ〝共同作業〟だということばが何度も出てくるが、仕事で何度も失敗する夫と、ひたすら夫を信じている妻と、その繰り返しばかり。繰り返しという意味では、ナルホド、振り子と同じだが。終盤のトリックも取って付けたよう。全体に作りが安っぽいのも気になる。夫婦役の2人の演技も、いささか安いような。
いい! 楽しかった! こういう作り方だとアクションがショボくならざるを得ないだろうが、それがうまく逆手にとられて有効に機能してる。劇中映像で一瞬倉田保昭が出てきた気がするが、つまりはあの感じ(倉田氏はリアルに凄いが)。傍から観ると情けない、しかし当事者は(妄想的に)アガッテる、これ大事。そーゆー話。本作の作り手たちはどんな評論家よりも、自身も友人漫画家仲間と自主映画作っている原作者の古泉智浩氏の評価が気になるだろがこれならばオッケーじゃろ。
「でーれー」は岡山弁で「すごい」「とても」という意味らしいがこれは関西弁「どえらい」のユニゾンか(余談。播州あたりに「だぼぉ」という罵りがあり、これは「どあほ」のこと)。お前なかなかやるな、というのを、でーれーなあ、と言い交わす女の子らが良い。やくざ映画同様の方言の魅力、地方性の映画的優位。そして時代設定、感覚を出すために何度か登場する山口百恵の歌は「女の子のためのかっこいいロック」という解釈で使用されていた。そうかなるほど、嬉しい発見だ
昔から連綿とある「女性の、店を持ちたい願望」(水商売のひとは独立、地方のヤンキーは何かの「ショップ」、都会人ならカフェ系)映画がまた、と油断してたが、違った。そんな田舎で客は来るの? への解答どころか、世相に対する握力が強く、地方貧困シングルマザーのネグレクト日常描写など観られるべきものがある。行方不明の父(村上淳)とDVドカタ強姦未遂男(永瀬正敏)が奏でるギターは同じ音色。思慕も脅威も表裏一体で男という外部なのだとする女系世界映画だったか。
ほぼ無職で、年が一歳に満たない娘がいて、本作の聖者の如き嫁とは似ても似つかぬ普通の嫁に日々厳しいことを言われている身では号泣はできなかった。振り子が右と左で力を合わせて動き続け、それが夫婦みたいだ、という喩えもしっくりこないままで。振り子を揺らすのは重力の作用、下方への力によるものじゃないのか。だがそう思えば途切れることなく、人間を下へ下へ、不幸へと引き続ける力を揺れることでいなして動力に変えていくのが、振り子で喩えられる、人の生活か、と。
厚ぼったい目の清水尚弥を見出した時点で勝ったようなものだが学校・イジメといったお決まりの舞台と設定でも的確な演出がハマると鮮やかに刷新されてしまう。主人公たちの暮らす狭い世界を緻密に作り出すことでヒーローが暴れる妄想も、ボクシングを教えてくれる女という異物も棲息可能にしてしまう。閉塞感が限界に達した時に堰を切ったように世界が変転するダイナミズムも心地いい。描かれる世界は小さいが視点は広く大きい。群像劇を撮る才も感じさせる加納隼は要注目監督だ。
高校時代と大人になってからを同じ俳優が演じる作品に、演出も演技も表層的な差異にしか目が向いていないと感じることがある。30年という歳月を往来するWキャストの本作では、優希・足立のみずみずしさに加えて、映画ではなじみの薄い宝塚OGの白羽・安蘭を持ってきたのが成功。30代後半の女性像を過剰に飾り立てず、さらりと描くことで過去と現在を違和感なく反射させている。山口百恵の曲が数曲使用されているが作劇ともっとリンクさせて響かせても良かったのではないか。
昨年同じ系列で公開された岬のカフェの映画を思い出す。アジアの監督を招いてもっとシンプルな作りにすれば……と思ったが、その理想を形にしたのが本作。企画はそれ以前からなので偶然でしかないが、シングルマザーの佐々木の夜の仕事や貧困、育児放棄をキレイ事で片付け気味にも思えるものの少人数の抑制された物語は魅力。永作が東京の店をたたんで岬の果てに移店させ、客が再びつく過程とそこに付随する金銭もからんだ〈生活〉が抜け落ちているので寓話として見るしかないが。
シンプルなパラパラ漫画なら成立する内容でも実写なら単なる年代記になってしまう。古い風俗を描くことは紋切り型の古めかしい見せ方に甘んじることではない。ベタな催涙映画に堕落させまいとする演出と獅童の演技で持っているが、それにしてもよしもとの芸人絡みの映画に毎度出てくる旧態然とした女性像を見る度に演じる女優が気の毒になる。妻の脳梗塞からの展開も、こんな俺ってカッコええやん的な男の自己陶酔的な贖罪行為を際立たせるためのお膳立てに見えてしまう。